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丑 その3 右と左。書風五期区分。

更新日:2024年3月4日


丑造形考察の補足として。左右、書風五期区分、書道史、指帰、筆ほか。 


 指先のもつ仕草の美しさは、あらゆる芸術に共通する。

筆を持つ手首の軌道、弦を弾(はじ)く指先の奏(かな)で、その手と手が生み出す世界は広がりつづける。

書画藝術、演奏など、多くの物語を紡ぎ、感動をともにしてきた。


前述した祭祀儀礼の作法(下上徹示)の奉仕の神職の手や、建築における版築の技術(對)などの職人の手は、特殊な手で在り「丑(にぎる。つかむ)」関連文字であるが、「丑」造形のベースとなるシンプルな「又」造形を含む文字にも、基本的なその手の魅力は表現されている。 


右と左の書き順は?さあ書いてみて!そう、もっとも基本的な造形として

「右」と「左」がある。




「右」は右手、「左」は左手をあらわし、甲骨造形も左右反転するカタチで明確に区別されている。のち、右に口(さい)を、左に工を付加して、現代漢字となる。




甲骨文字の書き順は正確にはわからない。それぞれの甲骨欠片より異なる。

書き順どころか、刻み忘れ甲骨も見つかっている。



下書きを見ながら、タテの腺だけを刻み、あとから横の線を甲骨盤をかたむけて刻したのではないか。

後期のものに刻み忘れや、雑な文字、ちいさくて解読しにくい造形がある。

300年弱の甲骨文字時代(殷代後期)のなかで、文字を刻す職人の神聖な奉製が神事ではなくルーティン化した作業になってしまったのか。合理化の中で失われていくものもあるだろう。



丑の造形のベースとなるのがこの「又」である。

シンプルな「手」を象った造形。




甲骨の「又」の使い方は多様で、多義語である。

甲骨文での意味は、有るの意味、侑せんか(祭祀)の意味、又の意味、右の意味、

祐助をあらわし、「受有祐」の意味など。

左はその祐助がえられない。与えられないことを意味した。


「又」要素をもつ関連文字も多い。

友は重ね合った二つの手、争は二つので手で物を争奪している抽象的な造形。

受けるは、中央に舟造形があり、造形的には水上で舟を受け渡すことで、比喩的にも表現される。

「廾」は左右のふたつの手で供物をささげる造形である。

「殳(しゅ)」や「攵(ぼく)」など、修祓として「何かを鼓舞する」造形からも、

多様な意味を持つ文字が生まれた。




 筆は「竹」+「聿(いつ)」からなる文字。聿は筆を手にもった造形。金文圖象にも鋳込まれていてその職能を表した。甲骨文字では、異体として丮けき(蹲踞~祭祀儀礼の所作)に従う文字も刻まれている。

 現代の「書」に通じる重要な文字である。


「聿いつ」は後代に助辞や他字の聲符として多用され原義として「筆」が作られた。筆は文字の発生より以前にあったともいわれており、紀元前2500年ごろの彩文土器などに描かれている文様は筆のようなもので描かれている。また甲骨文字は刻みこむ前に毛筆で下書きを書かれたともいわれている。



類似造形として「尹」挙げる。

伊尹の神として刻まれている。→「神の種」P161~参照

同じく神聖王朝であるエジプトのヒエログリフにも書記官は重要な役割を与えられている。



 筆に彳〈てき=十字路の片道・道の象形〉を付加すると法律の「律」となる。春秋時代以前に成文法は記録としては見られないが、のちの【律暦】という語は一年の陰陽季節の法則を現わす。〔史記、律書〕律暦は、天の五行八正の氣を通ずる店以(ゆゑん)、天の萬物を成熟する所以なり。とする。時を記録する十干十二支(暦)が刻まれることで、祭祀儀礼の式次第〈決まり事〉を書き記したり、所作の定め、律することは存在したであろう。現代の法律とは異なるが、道に書く、その道の掟等を記したかもしれない。甲骨には①師はこれ律を用いる…懐1581 ②軍律…屯119泣いて馬謖を斬る ③人名か、規律に従うことか。…合28953 などの甲骨文に見える。→『原姿力発想圖本P10(くさき)』参照。




                    

 殷の時代 亀甲や獣骨に契刻された文字で大部分が占トの辞であり、金文は青銅器に鋳込まれたもので殷代後期と周の時代のものが代表的である。春秋戦国時代には、紙が未だ現代のように普及品とされていなかった為に、木片や竹片が書写に使われた。いわゆる木簡や竹簡であり、周代末から戦国時代には絹なども書写用に使われた。籍文とは大蒙ともいい、周から戦国時代にかけて周の地方において使われていたものとされる。蒙文は「説文解字」に載っている 小蒙といわれる文字であるとのことである。阿辻3)秦の始皇帝が約200年間つづいた戦国時代を終了させたのは紀元前221年であり、度量衡を統一したことと、複雑であった大蒙の文字を改良して小蒙を作 り、これを全国標準の書体としたことがあげ られるとしている。


 酷い書道家の端くれは、秦の始皇帝の篆書を文字の進化の最上位として、現代でも篆刻を特別な権威あるものとして拝めたてまつりあげている。甲骨文は原初的だから、稚拙で現代人の書より劣っている。とし、小手先だけの勘違いした書家もいる。隋唐の役人や、平安時代の無名の文官の足元にもおよばないのであろう。

 書道会には未だに名ばかりの出来損ないの師匠をまつりあげて、思考停止の師弟関係と、意味の無い序列にまみれた腐った組織が存在するようだ。書道会の衰退、篆刻会の中身の無さは、おそらく故人も個人もどうすることもできない。誰も悪くないのだろう。組織的カルキュラムのマンネリ化や、探究心もない思考停止の状態は、足元を見失った根っこのない日本文化を象徴している。短期的に言えばアニメ優位に移行したのであるがそのシステムは、足元にあって大事にしてきた最初の「発想」を蔑ろにしている。

 日本の國の文化と称して、形式だけの腐った書をいまだ芸術として偽っている。公金をせしめる裏金的な組織体質、既得権益がはびこる延命措置に至るまで、西洋文化の奴隷のようだ。現代アートビジネスや西洋的な価値観に踊らされて、ホンモノ達は居場所を失った。一部の無能な書道家や篆刻家のあぐらをかいた権威的な落書きの結果、メディアも含め政治経済に至るまで日本全体で、大事な根っこを無視してきたことである。かなりの瀕死状態であることは、0311以後も東電が元気なのがいい例だ。文字のチカラを侮ってはいけない。半島(韓国)はハングルを「世界で一番美しい文字をつくる」といって方向転換せざる得ない地理的条件もあった。列島は何を見失って、一体何処に向かっているのか。


研究者の中には現代の「書」と、3400年前を嗣ぐ視点として努力をしてきたものもいる。

書道的五期区分の薫作賓の研究は、甲骨文字に芸術的な文字の一定の評価を与えた。

文字にたいして書風の推移を考えたことは、当時は画期的な研究であり、今日においても広く認められるところである。一期から五期までの文字の書風の変化をとらえて、、第一期を―雄偉―(つよくて堂々としている)、第二期を―謹飭―(つつしみ深い)、第三期を―頽靡―(くずれて衰えている)、第四期を―勁峭―(つよくて険しい)、第五期を―厳整―(つつしみ調っている)とした。

しかし甲骨トレースを細部にまで検証すると、物事はそこまで単純ではない。

金文書風も同じような推移をたどるが、甲骨文字はさらなる造形探究が必要であるとおもわれる。



 董作賓(1895~1963)は『甲骨文断代研究例』と『中国文字起源』 董作賓(1895~1963)『甲骨文断代研究例』(1933)を発表し、甲骨文の出土状況、甲骨に刻まれた文章のなかの人名を研究した。この人名によって五期の分類を試み論証した。五期は、殷王の世代ごとに分けられ、第一期は盤庚より三代あとの二三代目の武丁まで、第二期は祖庚から祖甲まで、第三期は廩辛から庚丁まで、第四期は武乙から文丁まで、第五期は帝乙から帝辛までとした。

 

最期に我が国の偉大な芸術家にも触れたい。

弘法大師空海筆の国宝『聾瞽指帰(ろうこしいき)』は、指に帰ると書す連語で、教えを説き指し示す意味をもつ。空海が唐に渡る以前の延暦16年(797年)24歳の時の自筆文書で、自身が出家して仏教の道に進むことを親族に表明した文書空海はこれで出家することを宣言したという。

儒教、道教、仏教の3つの教えについて、神髄を説く3人を、架空の人物が討論を行う形式で寓意小説が書かれており、後に序文などを改定して「三教指帰」を完成させた。すべてにおいて奇才の弘法大師空海は、周知の通りだが、特異な書家でもある。しかし空海翁は甲骨文字を見ることはなかった。空海さんが甲骨文字を見ていたら…と、もしかしたら日本の歴史すら変わったのかもしれない。




三教指帰(さんごうしき、さんごうしいき)』は初めにつくった『聾瞽指帰 (ろうこしいき) 』を少し修正したもので,出家の理由を記し,儒・仏・道3教の優劣を論じ,密教を最高としている儒教・道教・仏教を代表する人の人物を登場させ,これらを訪れる放蕩(ほうとう)児蛭牙(しつが)公子が最後に仏教の仮名乞児(かめいこつじ)の下で,他の儒教の亀毛(きもう)先生や道教の虚亡隠士(きょぶいんし)とともに説破され,仏道に入るという筋書。官僚を目指していた空海が大学を辞め、二十四歳で著した『三教指帰』は、儒教、道教、仏教を戯曲形式で比較し、仏教が最上であることを親族に説得する出家宣言の書と理解されてきた。本書は、激動の時代背景や神話・伝承、『日本書紀』などの歴史書と照らし合わせ、『三教指帰』執筆の隠された意図に迫る。稀代の専制君主・桓武天皇に対する憤りと古来、天皇に仕えてきた祖先への誇り。両者に引き裂かれた若き空海が、命を賭して伝えようとしたのは何か。


「指に帰れ」はうつくしく真に迫った聲である。


「甲骨に還れ」といった小林石寿さんのコトバ(跋文)がある。

書道会や既成の枠組みに対して異を唱えた芸術家たちは確かに存在したはずだ。


たしかなものが評価されず、表面だけを剥ぎ取って突き進むのであれば、

そこに未来は見えない。不安しかないだろう。

わたしは甲骨をトレースている時間、ひとときの幸福をおぼえる。

3400年前の魂を込め刻まれた造形が希望を与えてくれる。


この喜びにまさるものはない。

筆を持つ指先は甲骨文字の頃から存在した。原点を蔑ろにしてはいけない。




筆P10(原發本) (書) 音 ヒツ 訓 ふで・かく

竹+聿(いつ)。聿は筆を手にもった造形。金文圖象あり。※異体として丮けき(蹲踞)に従う文字も。

「聿いつ」は後代に助辞や他字の聲符として多用され原義として「筆」が作られた。

①在筆(地名)…合28169 ②祭祀名…花505 目書(目筆)  ③金文圖象…亜聿

→原姿力發想圖本p10 筆。


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