寅 その2 矢関連。大谷翔平エレクトロ
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前述の畀(吉祥)は特殊な矢であり、祭祀用語としての意味をもったが神具としての矢は別に、具体的な道具であり、かつ実用的な矢でもある。
人類が他の動物と異なり700万年をかけ、地球上で歩んできた痕跡はとても興味深い。石器や考古学的資料、そのデータが分析されることによって、そのつど、我々現代人にとっても、「人間とはいったい何なのか」と改めて問うことになる。
猿人、原人、旧人、そしてホモサピエンスとたどる中で、原人であるホモエレクトスの段階でもすでに人類の能力は飛躍した痕跡がある。と言われる。それは筋骨のそれぞれにおいて特に靱帯(じんたい)を他発達させ長距離走を可能としたこと、発汗機能、そして投擲(とうてき)の技術である。現代でも長距離マラソンや、ベースボール、もっとも根源的な競技には、やり投げ等もある。
骨盤を中心に、身体全体の遠心力で回転して、上手投げで遠くの方まで、正確に投げ込む。この動作はほかの動物にはできない難しい点がある。肩関節の自由度が制限されていたり、手で投げるそのものを正確につかめなければならない。
ホモエレクトスの肩の構造は、現代人に近く高度な上投げができたとされている。遠くの物体に確実に石をぶつける能力は、他の動物にとっては脅威であった。この力は、地球上のいきものとしては現代人でいえば大谷翔平的脅威の次元だろう。
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矢を使いこなす技術は一目置かれ、友好な地域の仲間は「諸侯」と呼ばれる。甲骨文字は「侯」の文字で刻まれる。
矢造形を上下反転させて地を定め、上部に御宮(ウ冠)で「室」となる。
重要な斎場の一角である「室」は東西南北の四方にもあった。
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矢を収納する箙の文字は二つの矢。
そして特筆すべき二つの矢造形の造形のひとつに「晋」がある。
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安倍晋三は三本の矢うんぬんだったが、晋は2本の矢である。
長らく何故、下部の造形が「日」であるかがわからなかったが、おそらく「日」は太陽そのものではなく、太陽のような熱い熱エネルギーを表現しているのではないか。
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現時点では、甲骨文字には用例がすくなく、将(爿)とセットで2欠片に刻まれているのを確認できるだけだ。し
かし軍事外祭における駐屯地の寝台である「爿」とともにあることから、軍事行動の上での製造工場か、祭祀に使う矢のエネルギーを表現したものかもしれない。
「至」の文字は、文法用法もあり「~に至るまで」という文脈もすでに刻まれている。
「至」と丮(祭祀の所作)を組み合わせた文字は、現代感じにはないが重要な祭祀用語であった。
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矢に纏わる文字はほかにも多く生まれたが、
隹造形と組み合わさる「雉(甲骨ではいきもののキジではない)」の用法が特殊だ。
その内容において「※雉」の甲骨文では
軍隊を失いたくない。
衆人を失いたくない。
と、願っている。
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甲骨文の文脈に触れればわかる。
奴隷制などは西洋的視点で彼らが身にしみて感じている「人VS人」の差別的な民族優位思想も関係するものだろう。古代の人々は同じ人間を差別し、思想や思惑を自身の利益を得るためだけの合理性をもって不毛な殺し合いをすることはない。そんな暇もなく自然との驚異と向き合い続けている。その世界に畏怖の念を抱き、人々はともに協力し合って行動した。衆を失いたくない。現代の国家の薄いイデオロギー対立なんぞ、大自然を前にしてどーでもいいのである。人間が人間同士で殺しあうことほど野蛮で愚かなことはない。宇宙のなかでちっぽけな存在であるヒトは、ヒトとして仲間を失いたくないのである。
われわれの文字は、基本には畏怖の念がある。
矢という神具ひとつから、知が生まれる。その「知」の原形は3300年近く土の中に埋もれていたが、西暦1899年あたりから発掘開始して、いまでは120年以上も経過している。
なぜ本来あった足元の「かけがえのないもの」を大切にしないのか。
原点を知ることで自分を知り、他者を迎え、その根っこから、わかりあう事もできる。
根っこが削がれていたら路頭に迷い続けるだろう。
矢造形に口(さい)を組み合わせて、本来の「知」を取り戻せ。
それは未来へ畏れを抱きつつも、きっと再生する根源の原動力となるだろう。
それを「知」という。
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