未考3『告』縄文土器+玉串奉奠。
「告」の造形が描かれたその根源の発想とはなにか。
本来、どのようなおもいが、この造形に込められていたのだろうか。
SuibunArt「告~縄文と玉串奉奠」イメージ
「告」には古来からさまざまな説があり、未だ定説はない謎の文字のひとつでもある。<「告」の諸説>
1「壴(ちゅ)」のように祭器を掛けたかたち。落合博士
2木の小枝に口(さい)をかけたかたち 白川翁
3牛の口で、牛が人に告げるかたち 許慎翁(紀元後100年「説文解字」)
3の許慎は俗説。落合氏と白川氏の説が考察すべき説である。
諸説1は、太鼓を懸けた形とする「壴」や「喜」などの造形から「告」を解説する。広い意味で祭器「口(さい)」を懸けた形とするのが妥当ではないかという考察である。2白川翁は「木の枝」と限定して同じく懸けたかたちとする。※確かに兆辞は、上部が、牛ではないが、生(艸木の上部)造形が多く明らかに艸木造形である。これは
告の上部が艸木の省略形の可能性は高い。生命力ある祝詞を表現したのかもしれない。
考察すべき点は<「口(さい)」を懸ける>とする表現であるが、それぞれ口(さい)の上に艸造形があるものを、銅鐸や鐘をつるす道具かなにかと見立てるのであれば「壴(ちゅ)」や「喜」も再考しなければならないし、ほかにも「庚」「庸」「康」などの音楽楽器とされる造形も考察したい。のちの青銅器の構造を、文字創成時の初期造形にそのままあたて解釈できるのかどうかは難しいが、青銅器はすでに存在はしている。しかし懸ける、吊す、そのような仕組みや動作が、古代の文字発想のなかで「告」造形に込められていたかはわからない。
抽象的な祈りを結んだりする行為は、今でもお神籤を御神木にくくりつける行為からも想像ができる。(本来はどの神社でも推奨はしていない。樹木を手入れしないと腐ってしまうので)
そこで「喪」の甲骨造形も思い出される。御神木や大木の中に、果物の実が熟すように口(さい)を描いた「喪」の造形がある。文例は「月喪」など、現代と同じ「失う」「失明」などの意味。※この文字も特殊な発想であるが、長くなるので今回は詳細解説はしない。
「告」とは何か。口(さい)を懸けた造形というよりは、祝詞が下に位置する。祝詞の上に、艸木を置く。
口(さい)の上に艸木を添えた「告」は、我が国の祭祀儀礼の「玉串奉奠」の所作に似て共通点がある。
わたしが現時点で考察した結果は、口(さい)の祈りを懸けた造形と見るよりも、その口(さい)の祈りに伸びゆく艸木(例えば榊)を、添えて奉る作法を表現したのではないだろうか。
告造形は下部に口(さい)がある。祈りの口(さい)を付加すると「者」との共通点もある。
十二支「未」造形考察の流れの中で、その造形要素を、類似造形とともに並べて考察する。前述ブログでみえてきた「者」造形は「告」造形と類似する。「者」は時間をあらわし「今者(現在)」「來者(将来)」という時制表現。「今そのときの現在」や「将来の時」の流れそのものを画いた。その上部の枝葉は太陽を目指し伸びゆく艸木の躍動感が表現されていて、絶え間なく流動している時をリアルに表現したものだが、「告」上部は「者」上部と異なり「未」造形の上部の枝葉と類似する。
告造形を「未」と並べると上部は類似する。伸びゆく艸木に「いのり」を込めたのである。
それは時間軸を固定したもので「近い将来」や「今」を区別することなく、どっしりとした「未来」への確固たる祈りの表象ではないか。十二支の「未」は時間であるが、艸木の伸びゆく未来への発想そのものであり、我が国に現代もつづく、玉串奉奠の儀礼がその古代の祭祀風景の面影をのこしている。
下部の造形要素は口(さい)である。「告」は祭祀名としての用例が多く、そこに「いのり」があった。
3400年前の甲骨文にある「告」の卜辞内容にすでに「報告・告げる」の意もある。その祭祀は神々に報告し、お伺いを立てるということ。重ね重ね報告する数多くの甲骨文を読めば、そこに畏怖の念があることが感じ取れるだろう。伸びゆく艸木に見立てて大自然と共存し、その艸木のエネルギーを人類は育んできた。
口(さい)についての考察は過去ブログでもたびたび書いているの。→過去ブログ参照のこと。
「告」とは何か。甲骨文には多くの祭祀儀礼を画いた文が刻まれている。ほかにも重要な祭祀名としての用例があり、また兆辞に「二告」「小告」などひび割れの回数や、ひび割れの音の小さかったとしても「告」造形を通して報告されている。兆辞は「艸」「生」造形が多い。
口(さい)の上に艸木を添えた「告」は、我が国の祭祀儀礼の「玉串奉奠」の所作に似ている。
その口(さい)の祈りに伸びゆく艸木(例えば榊)を、添えて奉る作法を表現。
むらかみすいぶん「好循環SAPIENS」
神道的な榊の役割と見立て、想像してみる。
未来のために「告白」をする。
あらゆる世界の宗教祭祀とも関連づけられるだろう。
未来のことは誰にもわからない。
時間は止まることなく、その先の未来を日々更新する。人類はいつだってその先をイメージして、持続することを試行錯誤してきたのだろう。しかし今なお未来予測は確実ではない。天気予報も地震速報も予測可能な範囲には限界がある。現代はあからさまに、経済合理性を踏まえて持続可能をうったえるが「いのり(口(さい))」のないデータをいくら蓄積しても、一部の都合良いものたちのデータ利用は、結局、思い通りにはいかないだろう。
地球を含めた生命体は、絶え間なく変化し続けている。
人は流動的だ。取り入れ流す流す管である。時に、忘れるし、適当だし、なによりも我々の肉体は永遠ではない。口(さい)は祈りを永く持続させるための器であり人類は縄文土器や青銅器を創造した。地上に持続可能な願いを起こし、後代の人に託し続けてきた。
それが文字には表現されている。
はじまりに確かにあった「野生の發想」である。
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